昨年の元日、能登半島を襲った大地震。その被害を聞くたびに、ふだん取材を担当する文化財の状況も気になっていた。石川県といえば「加賀百万石」の印象が強いが、能登も古くから日本海の交通の要所として栄えてきた場所だ。現地を訪ね、被災から1年となる文化財の今を確かめながら、能登が歩んだ歴史をたどることにした。
海の恵み、4000年続いた縄文集落
冬の能登は、どんよりした空模様が多い。訪れた12月上旬の4日間も、ほぼ曇りか雨。日本海に突き出た半島は、季節風の影響を受けやすいためらしい。
ただ、そんな地理的な特徴は、昔からこの地に多くの恵みをもたらした。縄文時代の北陸最大級の集落跡が、それを物語る。富山湾に臨む真脇(まわき)遺跡(能登町、国史跡)だ。
6千年前から、約4千年間にわたって人が住み続けたという。最大の理由は海の恵み。5千年前の地層からは計286頭ものイルカの骨が発見された。縄文人たちは、毎年春から秋に回遊してくるイルカの群れを丸木舟に乗って捕らえたそうだ。
「安定した食料を確保するのに最適な場所だったのです」。遺跡にある縄文館の高田秀樹館長(64)が教えてくれた。シカやイノシシの骨も出土したことから、山の恵みもあったようだ。
遺跡公園を見渡すと、近くの道の一部が陥没していたが、シンボルの環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)など遺跡自体は無事だった。丸太を半割りにした高さ7メートルの柱が円状に立ち並ぶ。2800年前の地層から出土した14個のクリの木の柱根を検証し、復元した。集落の神聖な場所だったとの説がある木柱列を見上げていると、ふと雲間から強い光が差し込み、長い影がいくつも伸びた。
弥生時代になると、能登半島の入り口に大きな集落ができた。吉崎・次場(すば)遺跡(羽咋(はくい)市、国史跡)だ。潟湖(せきこ)のほとりという好立地に水田を作り、集落は2200年前から500年間続いたという。
古墳時代には、豪族の大きな墓が築かれた。その代表例は雨の宮古墳群(中能登町、国史跡)。全長64メートルの県内最大級の前方後方墳など36基が山の上にある。だが、地震で墳丘に無数の亀裂や陥没ができ、今は立ち入り禁止。復旧はまだ先のようだ。
「能登国」成立、政治的に重要な地に
古代の能登は、政治的に重要な地域になる。「大和政権による北方遠征の兵站(へいたん)基地になり、中国東北地方にあった渤海(ぼっかい)国との交渉窓口にもなったのです」。金沢学院大名誉教授(北陸地域史)の東四柳(ひがしよつやなぎ)史明さん(76)が語る。
こうした背景から、718年に越前国を分割して「能登国」が成立。国府は現在の七尾市に置かれた。
記事の後半は、戦国時代に「北陸最大の都市」となった七尾の繁栄や、能登のその後の歴史をたどります。地震で大きな被害を受けた輪島市内の文化財の現状や、見学の可否も紹介します。
国府推定地の近くにある能登…